皆様、こんにちは。
「どうしてもこれを叶えたい」と強く願うとき、私たちの内側では一体何が起きているのでしょうか。
今日は、多くの達人が語る「願望の手放し」というテーマについて、私なりの実感を交えて深掘りしてみたいと思います。
「叶えたい」という願いに潜む逆説
「叶えたい」と強く願うことは、実は「今はまだ叶っていない」という現状を、誰よりも強く肯定することになっているのかもしれません。
不足を前提とした思いは、さらなる不足の現実を映し出す鏡のようなものです。もっというと、私たちは「ない」という磁場に自分を固定してしまっているわけです。
「獲得しよう」とするエネルギーが、かえって対象を遠ざけている……そんな不思議な構造がある気がします。
不足で命を繋ぐ「エゴ」の正体
なぜ私たちは、これほどまでに願望を握りしめてしまうのでしょうか。それは、願望を持つ主体である「エゴ」が、不足を感じることで自らの存在を維持しているからであると思います。
エゴにとって「満たされないこと」は、次に動くためのガソリンのようなものです。もし、すべてが満たされてしまったら、エゴは主張する場所を失い、消滅するしかありません。
しかし、結局はそれも内側の防衛本能のようなものであり、私たちは知らず知らずのうちに「欠乏の物語」を選択させられているのかもしれませんね。
ワンネスに委ね、充足に浸る
願望を「手放し」、ワンネスにすべてを委ねてしまう。すると、願望を必死に握りしめていた「私」という輪郭も、静かに溶けていく気がします。
これは決して諦めや絶望ではありません。あるいは、それこそが最も純粋な意図の形であるわけです。
私自身、かつて執着していたものを「もうどうにでもなれ」と投げ出した際、それまでの緊張が消え、ただ「在る」ことの充足感だけが残った経験があります。私が消えたとき、そこには初めから充足しかなかったということです。
空いたスペースに流れ込む「最善」
執着が消え、内側に大きな「余白」が生まれたとき、そこには自然と最善の形が流れ込んでくるようです。
それは、当初思い描いていた願望の成就かもしれませんし、あるいは、エゴの想像を遥かに超えた「もっと素晴らしい何か」かもしれません。
「私が」ルートを決め、コントロールしようとするのをやめたとき、本当の自分という広大な知性が、私たちを最適な場所へと運んでくれるのだという理解になるかもしれません。
獲得ではなく、本来の自分に戻るプロセス
結局のところ、願望実現とは何かを外側から獲得するプロセスではなく、もともとすべてを持っていた「本来の自分」に戻るプロセスと言えるのかもしれません。
私たちはもともと海そのものであり、波として分離しようとすること自体が不自然な努力であったということです。
「願望を手放すことで、願望そのものになる」。この矛盾したような言葉の中に、私たちが真に自由になるための鍵が隠されているような気がしてなりません。
皆様の握りしめた手が、いつか穏やかに開かれますように。

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