皆様、こんにちは。
日々の生活の中で、「もっと良くしたい」「本来の自分に辿り着きたい」と、内なる探求を続けておられる方も多いのかもしれません。
しかし、その真面目な努力こそが、皮肉にも目的地から自分を遠ざけているとしたら……。今日は、そんな「諦めの境地」について、私自身の所感を交えてお話ししてみたいと思います。
内観という努力がエゴのあがきである可能性
自分を見つめること、すなわち内観をしようと懸命になること自体が、実はエゴの最後のあがきなのかもしれません。
外部の出来事に反応し、それを修正しようとする。あるいは、静寂を手に入れようと躍起になる。しかし、結局はそれも「内側の問題」である気がします。何かに抵抗している状態、それ自体が波風を立てているわけです。
穏やかさを求めているはずなのに、その実、心の中では激しい闘争が起きている……。かつての私は、まさにそんなキャパオーバーな状態にありました。
「私が」という構図の限界
なぜ努力が実を結ばないのか。それは、「私が」内観するという構図から抜け出せないからであると思います。
「私が」エゴを見張る。「私が」本当の自分に到達する。この主語が存在する限り、それは分離の世界のお話です。自分に力があるという自認のもとで進もうとすれば、それは終わりのない迷路を彷徨うことになるのかもしれません。
もっというと、私たちは自分を「波」だと思い込んでいますが、本来は「海」そのものであるはずです。波が自力で海になろうとする必要など、そもそもなかったということです。
完全に降参した瞬間に緩む「自我の握力」
いろいろなメソッドを試し、それでもうまくいかない時、いっそ完全に諦めてみるのも一つの道かもしれません。
「私には無理だ。降参します」と、すべてを投げ出してみる。自らの無力さを知るべき時が、誰にでも訪れるような気がします。
私自身、人生のすべてが詰んでしまったと感じた夜、文字通り「万歳」して投げ出したことがあります。すると、不思議なことが起こりました。絶対に離すまいと握りしめていた自我の握力が、ふっと緩んだわけです。
力を抜いた瞬間、皮肉にもずっと求めていた平穏が流れ込んできました。それは、こちらから掴みに行ったものではなく、向こうから訪れたものでした。自分のキャパシティを超えた大きな力が、私を動かしているのだという理解になるかもしれません。
絶望的な手放しがスイッチになる
前向きな諦めではなく、もうどうしようもないという「絶望的な手放し」こそが、エゴの消滅スイッチとして機能するのかもしれないと思いました。
かつての「私」が死んだのかもしれません。しかし、それによって、本当の自分が息を吹き返す。これは、言葉ではなかなか説明し難い、内面的な変容です。
相手の思惑や状況に対してこちらが主張するのをやめれば、対立は起こりようがありません。戦いをやめることは、敗北ではなく、そもそも戦う必要がなかったという真理への到達であるわけです。
溺れる者は力を抜いた時に浮き上がる
よく言われることですが、溺れる者は力を抜いた時にこそ浮き上がります。
もがけばもがくほど沈んでいくのが、この世界の仕組みの面白いところであり、残酷なところでもありますね。でも、ご安心を。私たちはもともと、浮くようにできているのです。
ワンネスという広大な海に、身を任せてみる。自分の無力さを認め、手放したとき、私たちは自然と本来の場所に還っていくのかもしれません。
無理に何かを成し遂げようとしなくても、ただそこに在る。その静かな感覚の中に、すべての答えが含まれているような気がしてなりません。
皆様の探求が、いつか穏やかな「降参」へと辿り着きますよう、願っております。


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